Lektion 36, Text 2

第三十六課 二 魚屋さん

ドイツ民主共和国通信社の東京駐在特派員のノアクさんが、次の原稿を至急速達の航空便で送るようにと命令されてから、もう五日がたちました。何をどのように書くか、考えれば考えるだけ方針がまとまらなかったりして、思わず日日が過ぎてしまいました。きょうは、南さんの世話でやっと築地の魚市場に行けるようになりました。朝早く行かないと一番活気のあるところが見られないだろうと言われたので、五時ごろ家を出ました。三月下旬で、昼間は、そろそろ桜も咲き始めそうな気候ですが、早朝は相当冷え、ノアクさんもちょっと震えそうでした。南さんの紹介で、きょう通訳をしてくれる池田さんが、約束の新宿駅前で眠そうな顔で待っていました。

魚市場に近付くと、威勢のいい掛け声や、トラック、ライトバンなどのやかましい騒音が聞こえてきました。二人は、ちょっと中に入っただけで回りの場面に圧倒されそうでした。ここには、各地の漁港から陸に揚げられてまだ間もなさそうな魚が、日曜以外は、毎朝大量に運ばれてきます。ここの市場の中だけでも、千五百軒に及ぶ卸業者がいます。日本人は魚を生でも食べますし、何よりも新鮮な味を尊重するので、町の魚屋さんは毎朝早く、その日の商品を仕入れにここまでやって来ます。はかりで目方を量る声、大声でのなりながら、忙しそうに走り回る大勢の人々、箱のぶつかり合う音。まったく足を踏み入れる場もないような光景です。ここではだれともゆっくり話せそうもないと、ノアクさんは困っていました。幸いその時、親しそのに声をかけて横を通りかかった魚屋さんが、自分の店でインタビューをしてもよいと引き受けてくれました。

夕方七時過ぎに、ノアクさんは、教えられたように、中央線の高円寺駅前の広場から、右に曲がる大通りを真っ直ぐに歩いて行きました。これから二番目の角を折れて、四軒目には、確かに「魚丸」と書いた看板のかかっている店がありました。今朝会ったおじさんは、「さあ、どうぞ。座敷へ上がって、ちょっと待っていて下さい。家内がうまい刺身を用意していますから。」と、疲れも知らなさそうな、朗らかな調子でノアクさんを招き入れました。

魚屋さん夫婦は打ちとけて、いろいろ話してくれました。この店は親から譲り受けたそうです。この商売で一番苦心するのは、商品がくさりやすいので、なるべくその日に売れるだけの分を仕入れてこなければならないということだそうですが、最近は、異常な物価高で、主婦たちも節約して買うので、見積るのがむずかしいそうです。米と魚は日本人の主な食料なのに、魚の場合、生産者の漁師が産地でつける値段は、消費者が買うまでに、五、六倍にも上がってしまいます。けれども、魚屋さん夫婦がもうける分はわずかで、生活はかなりきびしいそうです。「最近は注文も減っていますし、人手が足りないので、配達もなかなかできません。つぶれる店も増えていますし、私たちの将来も、とても不安です。」と夫婦は、何人かの商売仲間のことについて話してくれました。

夜遅く家に帰りながら、ノアクさんは、あしたは一つ原稿が書けそうだと思いました。