Lektion 29, Text 2

第二十九課 二 あるおばあさんのこと

私が京都市内の団地に引っ越してきてから、二か月たったころのことでした。新しい環境や近所の人たちにも慣れてきましたが、そのころ、私と同じ四号館の三階に、ある気の毒のおばあさんが、一人で暮していて身寄りもなく、とてもかわいそうだと人々が噂しているのを耳にしました。私もそのおばあさんとは、もう顔見知りで。私の感じでは、人々の噂とは虐に、七十歳ぐらいのとても元気で、親しみやすいおばあさんです。時々階段を上る時、思い買物袋を持ってあげたり、団地の前の横断舗道はよく交通事故があって、特に年寄りや子供には危ないので、手をとっていっしょに渡ってあげたりいていました。その度に、「親切にしてくれて有り難いと思っています。暇な時、遊びに来て下さい。いろいろ話してあげたいと思うこともありますし…。」と快活な調子で自宅に招いてくれました。

ある日曜日、ちょうど暇だったので、おばあさんのところに行きました。そこで聞いた話に私は深く心を打たれ、今でもおばあさんの声が生き生きと耳に聞こえるような気がします。

「戦争中、私は広島に住んでいました。一九四五年八月六日原爆が落された時、主人や子供たちは広島にいましたが、私は幸か不幸か、ちょうどその二日前から里帰りで大阪に行っていました。その日広島にアメリカが新しい型の科学爆弾を落し、人も動物も草も木も完全に破壊されてしまったというニュースを聞きました。私は大急ぎで大阪を出発し、翌日には何とか広島に着きました。その時、広島で見た恐ろしい光景は、いまでも、はっきり記憶に残っています。黒く焼け焦げた裸の死体が、あちらこちらにころがっていて、子供を捜し求めて呼ぶ母親の声や、水がほしいと叫ぶ人々の声が気味悪く辺りに響いていました。家があったところは一面の焼け野原で、家族の消息は、どこに行ってもつかめませんでした。こうして私は一瞬のうちに家族も財産もなくしてしまいました。それ以来、私はこのような悲劇が二度とふたたびくり返されてはいけないと固く信じ、そのために生き残った自分が何か役に立ちたいと思い、平和運動に参加してきました。そこに生きる意義を認めました。核エネルギーは、人間の殺すために使用されてはいけません。人間がより豊かで幸せになるために利用されなければなりません。核兵器の製造、実験、使用は禁止されなければなりません。こうした目的の運動にあなたも協力してもらいたいと思ってお話ししました…。」

おばあさんは健康を害していて、あまり運動に貢献できないのが、とても残念だと話を続けました。私は、おばあさんの人生に対するこうした態度は立派だと思います。


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