ある時、私がまだ小さな子供だったころ、世界にはいろいろな国がたくさんあり、国によって話される言葉が違うということを母に教えられて、とてもおもしろいと思いました。
ソ連ではロシア語が話され、イギリスやアメリカでは英語が話され、そこに住んでいる子供たちは、学校や家庭で、それぞれの言葉で読んだり、書いたり、話たりしているということが本当に不思議に思われました。
私が中学校の三年生になったころ、ドイツ人のナウマンさんが家族を連れて、よく私の家に遊びに来ました。ナウマンさんは父の友だちで、その当時、仕事の関係で、何年か前から東京に住んでいました。ナウマンさんの家族の人たちは、みんな少し日本語が放せましたが、私の家では、父以外はドイツ語ができなかったので、時々互いに言っていることの内容がはっきりわからないことがあって困りました。ナウマンさんのおじょうさんは、私より一つ年上でした。いっしょに遊んだり、話したりした時に、単語はわかりながら、それによって表現される内容や意味が全体としてわからなかったり、間違えて理解されたりしたことがあったのを、私は今でも忘れられません。
特に、日本で毎日の生活の中で使われているあいさつの表現は、そのままドイツ語には訳せない場合が多く、日本語がかなり上手な外国人にも、なかなか覚えられないとナウマンさんはよく話していました。
また、ある時、ナウマンさんは、笑いながら、その前の日に経験したことを私たちに話しました。
ナウマンさんはその日、仕事の関係で、あるパーティーに招待されました。そこで偶然、知り合いの木村さんに会いました。木村さんがとてもくたびれた顔をしていたので、その理由を聞くと、
「きのうは、仕事で忙しかったところへ、大学時代の友だちに遊びに来られ、時間を取られてしまいました。その上、夜中に友だちを駅まで見送った帰りに雨に降られ、今日は朝からひどい頭痛がします。」
と木村さんが答えました。「友だちに来られる」というような表現や考え方はドイツ語にはありません。ちょっとわかりにくかったので、ナウマンさんが、
「どうして、忙しいので、またこの次に来て下さいと断わらなかったのですか。」
と聞くと、木村さんはびっくりして、
「日本人は普通、友だちにそんなにはっきり断わられるのが好きではありません。」
と答えました。このように、日本人によって普通に使われている表現が、外国人に理解されないということは、よくあることです。